重積の気管支ぜん息になった場所から
離れることは「できない」

松井健吉さんと息子・一弘さん

「うちには酸素ボンベから何から何までありますよ」という松井健吉さん(72歳)。文京区千川通りで2代続いた製本屋さんでした。4歳の頃、重積の気管支ぜん息を発症した息子・一弘さんのために昔、自前で買った旧式酸素ボンベを見せてもらってのインタビューでした。(2004.9.20)

写真左:都庁前定例宣伝行動に参加して東京大気汚染公害裁判原告団のチラシを出勤する都職員にくばる松井さん。

写真:昔の息子さん用酸素ボンベ。すべて自前で購入。収入はすべて医療費に消え、生活費がなかったという。

 今回のインタビューで松井さんに聞きたいことの一つに、居住の移転は考えなかったのか、ということがありました。
 自動車排ガスによる汚染で息子さんが重積の気管支ぜん息になり、松井さん自身も肺気腫という重い症状です。その原因が住んでいる環境にあるとしたら、きれいな空気の場所に移転することはできなかったのか、転地療養は考えられなかったのかという「声」があることも気になっていました。

 転居は考えたことがありますか。
 「いや、それはできない」
 質問に、松井さんは即座にはっきり答えました。
 まず、仕事の関係でできないこと。松井さんの仕事は親の代から製本業です。住んでいる文京区は、東京の中で、印刷・製本業種の集積地として有名な場所です。製本関係の業者・企業が地域で分業し合って、仕事をしています。もし、きれいな空気を求めて、東京から離れたら、それは生活の糧、収入がなくなることを意味します。生きていくためには、空気が悪いと思っても、抜け出すことは考えられないことでした。
 もう一つの理由は、ぜん息がこんなにひどい病気、治らない病気とは思わなかったことです。先生も一生懸命治療をしてくれている、「治るだろう」の希望を持っていたことです。
 とにかく必死に働いて、十分な治療を受けさせる。そのためにも住んでいる場所を転居することは出来なかったのです。
 しかし、と、松井さんは言葉を続けた。

 「千葉県岬町に転地療養しようとしたが、だめだった。病院がなかった。病院にいくためには、JRに乗って、それからタクシー。そんなことをしていたら息子は死んじゃう。ひとたび大発作が起きたら、たちまち唇は紫色になって、意識がなくなる」。
 ぜん息の治療に精通した医師がいない土地に行くことはできないのです。居住の移転と転地療養は生活の補償、医療体制がないと無理だと思いました。
 息子・一弘さんの現在について

 息子は大発作が起きたら救急車を呼んでいたら間に合わないでしょ。みるみる内に唇が紫色になるからね。外出先でもし、大発作を起こしたら、その時はダメだとあきらめています。本人もそのことはよく分かっていて、発作が起きたときに使う気管支拡張剤のエアゾールをいつも2本持って出る。もし、忘れたりしたら本人から「持ってきてくれ」って、連絡があります。

 そんな一弘さんに医師の先生は恐れていて、「早め、早めに来い」と言ってくれているという。
住まいの環境は幹線道路に囲まれた低地
 松井さんの家には、地下鉄丸ノ内線「茗荷谷駅」前の「春日通り」と「千川通り」をつなぐ湯立坂をくだって行きます。住まいの環境をたずねると、まわりは幹線道路の 「春日通り」「白山通り」「千川通り」「忍通り」に囲まれた位置にありました。この中にあって「千川通り」は低地を流れる川のような感じの道路です。
 この地形の影響から松井さんが住む場所は、大気汚染濃度が都内でも有数の高さです。
 ところが、第一次判決は松井さんを損害賠償の対象から外しました。
松井さんが住む家から20メートル先の「千川通り」の一日の自動車交通量は4万台に満たないというのが理由です。(第一次判決は損害賠償対象を一日の自動車交通量が4万台以上、沿道から50メートル以内の原告を対象にした) 汚染濃度を見れば、判決が依拠した千葉大調査の汚染濃度を上まわっているのに、科学的根拠のない「一日4万台の交通量」を基準にして、訴えを退けたのです。

写真左:松井さんが住んでいる「千川通り」。この日は土曜日で、交通量は少ない。 写真右:一車線の道路を大型トラックがひっきりなしに通る 。東京では普通の光景。幹線道路に抜けるため、慢性的な渋滞が起こる道路も少なくない。

松井さんの病状について
 僕は肺気腫といわれている。肺気腫というのは、風船をふくらませてしぼむとシワシワになるでしょ。僕の肺はその状態なんです。息を吐くことができない。

症状としてはどうなるんですか
 階段を上ることができない。四つんばにならないとあがれない。本当にひどい発作になると、階段どころか、動くこともできなくなるんです。

普通の状態、比較的体調がいい時はどうですか。例えば、地下鉄茗荷谷駅から松井さんの家の近くまで湯立坂がありますね、あの坂を上るのはどうですか。
 まず、一気に歩くことは調子がいいときでもできない。息切れがして何回も休まないと歩くことができないです。

これまでに、何が大変でしたか。
 子どもの医療費の自己負担が大変だった。自分の稼ぎは全部医療費に消え、早い話、生活費がなかったのでなさけない話ですが、親に助けてもらっていた。
 その時も病院に相談して、一番いい方法を病院は手をつくしてやっていただいた。それでも医療費を払うと、生活費がなかった。だから本当に大変な思いをしてきました。

奥さんは。
 女房は寝間着を着て、寝たことはなかったです。いつでも飛び出せるようにしていたんです。今もパートですが、働いてくれているので、女房には本当によくしてもらっている。

仕事は結局、どうなったんですか。

 ぜん息発作が起きて、仕事はできなくなりました。その時、親切な人がいて、じゃ、機械を全部処分してうちで働かないかと声をかけてくれた人がいたんです。
 そこで、僕もその通りにしてその人の会社で働くことにした。社員でなく請負でやった。とても親切な社長で、何かと心配してくれ、請負の自分に小遣いまでくれた。だが、やっぱり発作が起きて、3カ月ほど入院しなければいけなくなった。すると、会社として困るのは、自分にも分かる。社長は「辞めろ」とは言わなかったが、なんだかんだと面倒をみてくれただけに、申し訳ない気持ちが先に立って、こっちから「誰か、僕に代わる人を探してください」と頼んで、会社をやめることになった。

息子さんについて
 息子は小学校5年生のとき、診察を受けていた先生の目の前で大きな発作を起こして意識を失いました。その時、酸素を十分、取り入れることができなかつたため、低酸素脳症を起こして、障害が残ってしまった。小・中・高と養護学校に行ったが、何回も入院をしているので字が読めない。そんなことだから働いたこともない。
 先生からは「この子は30歳までは生きない。覚悟しろ」と言われてきた。親として大変な苦しみを味わってきた子だから、好きなことをさせた。だから、わがままな子に育ったと思うが、発作のひどい状態をみたら分かると思うけれど、好きなことをさせてやりたいと思って、させてきた。
 息子には、親はいつまでもいないぞ。と言っている。息子は「分かったよ」と言っているが、息子は一人で生きていけない。安心してくらせるように制度をつくって欲しいというのが僕と女房の願いです。

写真左:都庁前の定例早朝宣伝をする東京大気汚染公害裁判原告団 写真右:働けない一人息子一弘さんがチャレンジしているパソコン
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