初山影一さん(55歳)は、ぜん息で自発呼吸の機能が極端に衰えたため24時間、酸素吸入を管から取り入れないと生きていけません。38歳の時、息ができないひどいぜん息に襲われて以来、入退院を繰り返し、生死をさまよう闘病を余儀なくさせられました。ぜん息被害を受けた様子、仕事や生活。いい病院、いい先生に出会い、ようやく回復のきざしを見せた病気。原告団副団長としてがんばっている初山さんをご自宅に訪ねました。
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24時間、酸素吸入の管を装着しないといけない初山さん。
自宅酸素発生・吸入器(左上)
就寝時も酸素吸入の管をつけ寝ます(上)
携帯酸素ボンベ(左)
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左=東京のスモッグ。初山さんは、こうしたスモッグにつつまれた渋滞道路にさらされて仕事をしていました。(昭和46年の写真) |
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02年10月29日の第1次東京地裁判決から2年を迎えようとしています。この10月29日には判決2周年の大きな集会も予定されていますが、第1次判決をどう思いますか。
初・公正な判断を期待していたんです。裁判長に対しては相当期待していましたが裏切られた気持ち、がっかりしました。
自動車メーカーについては。
初・一番思うのはダブルスタンダードです。自動車メーカーがアメリカには排ガス低減装置をつけた車を輸出していたことを裁判で知りました。アメリカにはクリーンな車を輸出して、なぜ日本でつけなかった。自動車メーカーの責任はここに尽きるんじゃないかと思います。
国は粒子状物質(PM)規制を平成6年までしなかったため、PMは野放しで排出されていましたね。
初・そういうことも裁判で初めて知りました。
ところで、初山さんがぜん息患者になった環境や状況について教えてください。
初・わたしの家は墨田区向島で従業員30人ほどの中小企業でタバコライターのオイルを製造していたんです。その分野では国内市場シエアは90%を占める独占企業でした。僕は税理士を希望していたんですが、おやじが「税理士なんかならなくてもいい、あとを継げ」ということで、短大を卒業すると家業についたんです。野球も水泳もやっていた普通の青年で、風邪など引いたこともありませんでした。
僕の仕事は事務所に顔を出して、注文を確認して商品を車(バン)に積んで配送と営業に 出るのが仕事で、毎日、車で出かけました。
一番の得意先が港区浜松町にありました。そこに行くのに日本橋、銀座を抜ける幹線道路の昭和通りを走りました。今はすいすい流れていますが当時は大変な渋滞で、道路はスモッグに覆われ、大型トラックの後ろなどにつくと、ものすごい排ガスを浴びたりしました。当時の車はクーラーなんって付いていませんでしたから、窓を開けて走っていたので、今、考えると、ひどい排ガスを吸っていたことになります。
写真は渋滞イメージ、「おおさかの環境」より転載
そうした仕事はどれほどつづいたんですか。
初・仕事ができなくなった38歳までの約20年間、毎日、そうした環境の中で仕事をしていました。
車を運転している時間は一日、どれぐらいだったんですか。
初・半日以上は車を運転していました。
昭和通りだけですか
初・浜松町の得意先には毎日、行きましたが、浜松町以外の得意先にも行くことがよくありました。中央通り、中山道など、どの道路も渋滞がひどく、出かける時は突入していく気持ちでした。当時の渋滞とスモッグは大変なものでした。
ぜん息はいつごろから始まったんですか。
初・ひどくなったのは38歳の頃でした。突然、本当に息ができなくなったんです。医者から「タバコずいぶん吸っただろう」と言われましたが、私はタバコを吸ったことがないんです。慶応から東大、東京医科歯科大学、有名な病院に全部行きましたが、まずいわれたのが「タバコが原因だろう」と。その頃から入退院を繰り返すようになりました。
突然、息ができない発作におそわれたわけですか。
初・それまでにもぜん息はありましたが、息が出来ない発作に襲われたのは38歳の頃でした。
治療には通っていた。
初・医者には診てもらっていましたが、会社が大変なことになっていて、その対策に頭がいっぱいで、対策に走り回って治療は二の次でした。
大変な状況とは。
初・大手企業が100円ライターを相次いで販売するようになったため、会社の売り上げは目に見えて減ったんです。親父と「どうする」となんども話し合いました。銀行は「金を貸すから100円ライターを始めないか」とすすめました。私は、やってみたい気持ちはあったのですが、当時は入退院する状態で、動けなくなっていました。そうしたこともあって親父が「もう、ライターの時代じゃないだろう」と言って、会社をたたむことにしたんです。その頃はまだ利益を上げていましたから従業員のみなさんにお金を分配して、会社を解散したんです。
初山さんがぜん息にかかっていなかったら、100円ライターの事業を始めていたかも。
初・それはありますね。やってみたい気持ちはありましたから。
ぜん息で事業の夢も壊された。
初・ええ、それはいえますね。でも当時は、治療に専念しようと考え、病院通いをしたんです。1年ほど病院通いをしたのですが一向に治らない。蓄えも消えて、それが元で夫婦別れです。中学1年の娘と小学校5年の息子がいました。こんなわずらった体では家族の面倒がみれない。子どもも引き取れないから話し合って別れることになりました。
いい時に分譲マンションを手に入れていましたのでそれを渡して、私はフーテンの寅さんじゃないが、家を出て、治療に専念しようとしたんです。
病状はどんな感じですか。
初・錦糸町にある柿花先生という呼吸器の有名な先生にレントゲンを撮ってもらったことがあるんです。いまもはっきり覚えています。先生が驚いた顔をして私のレントゲン写真と80歳のおじいちゃんの写真を並べました。
80歳の普通のおじいちゃんの写真はスイッチを消したテレビのブラウン管の色(薄墨色)ですが、私の肺は真っ白でした。先生は「これは、苦しいだろう。酸素を取り込めない肺になっちゃっている」と教えてくれたんです。そして柿花先生は公害健康被害補償(公健法)の説明もしてくれて、申請を勧められた記憶があるんですが、そのとき、僕は本当にお金に困っていませんでしたから、申請をしなかったんです。
働けない体になって、どうしたんですか。
初・治るだろうと希望をもって、千葉県船橋市で妹夫婦がやっている不動産の事務を手伝いながら世話になって治療に専念したんです。病気を治そうと専念したのですがだめでした。
症状というか病名は何でしたか。
初・病名はぜん息でした。とにかく、医者代に全部消えて、どうしょうもなくなって、食べるのは妹が食べさせてくれたのですが、一向によくならない。実は僕は死にそこないなんです。お金はすっからかんになって、動けなくなっていっていたんです。もう一人の妹が「いい病院といい先生がいる」と教えてくれて、そこで診てもらうことを勧めてくれたんです。それが今、診てもらっている民医連の柳原診療所でした。動けない僕を弟が自動車に乗せてくれ、柳原診療所で診てもらったんです。病院ですぐ生活保護の手続きを教えてもらってすぐ生活保護がとれました。平成4年ぐらいの頃だったと思います。それからですね、よくなったのは、いい病院といい先生にめぐりあって、本当に肩の重しが取れました。
現在の病状はどんな具合ですか。
初・真っ白だった肺もかなり下の方まで黒くなってきて下の方がチリチリ燃えているというか白いです。慢性気管支炎がいまの病名です。
日常生活は。
初・肺機能が低下しているため自発呼吸ができないので酸素吸入器をつけていないとだめなんです。 そとに出るときは毎日、携帯用をもって出ます。昔はこの容器が鉄だったもので大変でした。今は軽くなった。家にいるときは、これ(自宅ベッド横に設置されている酸素発生医療装置・写真参照)に切り替えるんです。以前は風呂に入るときも付けていました。部屋を動くときも付けているので管がこんなに長いんです。
以前、入院しているときはこういうものをつかうんですが、退院すると薬だけになるんです。柳原診療所で診てもらうようになって、この装置を自宅にも置くことができるようになったんです。これがなければ僕は生きていけない 体なんです。
初山さんは第2次原告で、原告団副団長をされているわけですが、どんな活動をされてきたんでしようか。
初・柳原診療所で東京大気汚染公害裁判の話をきき、裁判への参加を大越・原告団事務局長から誘われて第2次原告になったのですが、運動、闘争一直線です。
署名活動とか、原告団集めに吉沢先生(柳原診療所医師)の秘書みたいにずっとついて原告団の呼びかけをしていました。ぜんそく患者の人に会って裁判に加わらないかと。
初山さんが所属している足立支部は活動が活発と聞いていますが。
初・支部の名前は東京公害患者会足立支部です。足立支部には今、原告が120人から130人いて、支部ニュースも出したり、署名も沢山集めています。他の支部からみると原告の数も多いし、運動は広がっていると思いますが、正直言って、疲れ切っちゃっています。
疲れているというのは、仲間の中に肺ガンになってメスを入れた人もいますし、あと何カ月という仲間もいます。その人はいま署名を一生懸命集めている。生活保護を受けて、署名をとにかくよくまあ、こんなに取れるなあと思うほど。医者は入れ(入院)というのだけれども本人は「いや」だといって署名を広げているんです。ですから本当によくがんばっている。わたしは今55歳ですが、昨日も5カ所を回った(訴えに)だけでフウフウ言っている。みんなわたしより高齢になっているから大変なんです。第1次判決が思ったようなものでなかったので先が見えない。
20万署名をやろうと決まって取り組んでいるが全体として達成できていない。そんなことから後ずさりしている ように感じている。
だから僕は、みんなに「じっと待っていて、勝つのか。署名、やった方がいいじゃないか。訴えができるところ、行くところは沢山ある。いくつでもいいから、やった方がいい。600人の原告団より1000人の方が力になる、どこの地域にも病院があると思う。その病院にお話しをして、外に出て動けない人はそこにいって、半日でもいいから来た患者さんにお話しをする。べつにマイクをにぎって訴えることをしなくてもいいんだから、そこにいて、来た人に話をしよう」と言っているんですが、これがなかなかやられないんです。
それと、わたしたち患者会・原告団は駅頭などに立って署名活動をするのですが、足を止めて署名をしてくれる、チラシを取ってくれる人が少ないことも疲れ感を起こしていると思う。

そうした中で、都民の方たちに訴えたいこととして何かありますか。
初・街頭で僕はマイクで「明日はわが身です」ということを話すのですが、今の人は自分は絶対にならないと思っている。しかし学校保健調査によると子どもさんがすごい勢いでぜん息になっています。お母さんが認定患者で小学生の子どももぜん息患者で、その子も原告ですが僕と同じ酸素吸入器を持って毎日登校しています。そういう状況があるのに、最近、もっとも基本となるデーターを収集記録する 一般局 (一般環境大気測定局)を足立区は3局も撤去している。
また、東京では昭和47年に18歳未満の人に対する医療費助成「大気汚染に係る健康被害者に対する医療費の助成に関する条例」があります 。私たちはこの年齢撤廃を求めているのですが、都は逆に助成申請抑制を進めたり、年齢の引き下げも検討している話も聞こえてきます。
いったんぜん息患者になったら医療費負担、生活が大変なことになります。条例の動きや救済制度がないことなどに関心を持ってほしいと思う。
原告としてどうですか。
初・僕が受けた苦しみを 子どもさんに味わせたくない。こんな苦しい思いはわたしだけでたくさんです。この裁判では受けた被害をはかるものとして損害賠償をかけていますが僕のこの闘病生活はこれから先、どれだけ続くか分かりません。病院に毎日点滴を受けに来る人がいます。お金だけでなく、きちんとした補償制度、救済制度を作って欲しい。それがあることが生きていく安心になる。そして 生活保護ではなく、補償法にもとづく生活保障が気持ち的にもすきっとする。体自体は元に戻らない 、失ったものは元にもどらないが、これからの生涯を安心して暮らせるようにしてほしい。
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