ぜん息という病を得て

石川牧子

石川さん(中央・トヨタ東京本社前) 03年
 私は東京でも比較的空気がきれいと言われている三多摩で暮らしていましたが、家のすぐそばを新青梅街道が通り、隣は市の清掃車の駐車場でした。夜はトラックがゴウゴウ通り、朝は何十台もの清掃車が出発前のアイドリングを長時間するという環境の中で暮らしていました。
 20歳を少し過ぎたころから体に異変が現れて気管支ぜん息と告げられたのは25年前前のことでした。当時の私は全くぜん息という病気の知識がなかったので、発作が起きるたびにその苦しさと息の出来ない恐ろしさにパニックに成り、ヒイヒイと泣いては家族に背中をさすってもらいました。
 けれど発作は段々重くなり救急車で行って入院することも 多くなっていました。発作が起きると身動きひとつ出来なくなり、まだ若かった私は、トイレの世話をして貰らうのが死ぬほど恥ずかしくてたませんでした。それでもまだ当時はいつかこの病気も治ると思っていたので、一緒に病気を治そうと言ってくれた夫の言葉に勇気づけられて、数年後に結婚しました。
 しかし一向に病状は良くならず、夫は看病と入院費の支払いに追わ、疲れ果てていました。そんな状態にもかかわらず妊娠した私は周囲の反対をよそに子供を生む決心をしました。何もできなく、自信をなくしていた私には、自分を強くするために命と引き換えてでも子供を生みたかったのです。私は病院をたらい回しにされながらもなんとか子どもを生むことができましたが、本当の苦しみはここから始まりました。
 生まれた娘が4カ月のときに大きな発作を起こし、長期の入院をしました。まだお乳を飲んでいる子ども母親が離れるということが、どれほど切ないことかその時まで私は知らなかったのです。
 死ぬより辛いと言う言葉がありますが、この時の発作の苦しみと子供と離れる悲しさは、まさにそうでした。
 わたしはただ一つ動かすことのできる目を病室の窓に向け、そこから見える風に震える木の枝が花を咲かせ、散る様子を見ながら、この窓の外には確かに生きて流れる時間がある。家族が待つ我が家があるあの窓の外へ、私はどんなことをしても帰らなくてはならないと思い、ステロイドの大量投与も甘んじてうけました。
 やっと子供に会える日がきましたが、娘は私の顔を忘れていました。私はその言い知れぬ悲しさに声をあげてなきました。
 どうしてこんな思いをしなくては成らないのだろう。どんな悪いことをしたと言うのだろうか、こんな人生しかないのなら生まれてこなければ良かったと思うようになりました。しかしそれ後も病状は悪くなるばかりで、発作がおきると血液中にガスが溜まり、意識が混濁して、空白の時間ができるように成りました。尿を垂れ流し、はいつくばって苦しさに耐えながら、あと
5年、せめて3年でいいから娘の成長を見とどけさせてほしいと、すがるような気持ちで薬物の大量投与もいといませんでした。
 その結果退院したあとも体中に湿疹ができ、筋肉は萎えて歩くこともままならず、手は震え、字を書くこともできませんでした。
 幻覚や幻聴にも悩まされ、絶え間ない倦怠感と苛立ちにこのまま生き延びても私は廃人になってしまうのではないかと恐れながらも、娘は幼稚園に行く年になっていました。けれどいつも自分がいない間に母親が突然入院して、祖父母の所へ預けられる不安から情緒不安定になり、幼稚園にも通えなくなってしまい、夫は一人で留守宅を守る寂しさと経済的な圧迫から怪しげな宗教にのめり込みそうになっていました。
 疑心暗鬼になっていた私はもう夫の心も離れてしまうた様な気がして、発作的に死のうと思ってしまい、娘を連れて家を出ました。途中の駅で幼心にただならぬ気配を感じた娘の「お母さん帰ろう。帰ろう」という必死の哀願に我に帰り、私は自分が病気に負けていたことに気ずきました。
 その日から娘に詫びるためにもこの病気と真っ向から闘い出しました。
 私はぜん息について書かれている本を読みあさり、学習会などにも積極的に参加をして学びました。幸いにも信頼できる医師にも出会え、引越しをしたのも良い結果になり、入院することもなくなり、薬を飲むだけで普通の生活ができる様になりました。悩まされていた副作用の症状も消え、家族にも策顔が戻ってきました。再び自信を取り戻した私は、自分や夫がいなくなっても娘が一人ぼっちになら様に、もう一人子供が欲しいと思うようになりました。そして喜びと悲しみが一緒にやって来ました。あきらめかけたころ二人めの妊娠が告げられました。
 同時にそれが異常妊娠で決して生まれることのない子どもで、早急に手術をしないと私も命が危ういといわれ、嫌も応もなく子供を取ら出すために開腹手術を受けると、私の腹部の臓器は広範囲におびただしい癒着を起していて、すでに出産に耐えられる状態ではありませんでした。結果的に異常妊娠であったことで命びろいしたのでしたが、出産と子どもは望めないと言われました。
 私はまだ見ぬ我が子に命を救われたのかという思いと深い喪失感に打ちのめされました。女性が子供を産まないのと産めないないのでは天と地ほどの差があります。
 私はもうじゅぶんに苦しんだと思っていたのに、まだこんな悲しみが待ち構えていたのかと思うと、自分がぜん息という病気にしっかりと襟首をつかまれて居ることを思い知らされました。気づかぬうちに薬の副作用が取り返しの付かないダメージを負っていたのです。それまでにも私は三度の骨折をしていました。
 一昨年はセキをして肋骨を疲労骨折し、昨年はクシャミをしただけで椎間板がつぶれました。いま私の骨は老人の様になっていると言われました。これは私の苦しみの一部です。私に限らずぜん息の患者はみな、語り尽せぬ苦しみを抱えて生きています。
 私たちは、この裁判に訴えるまでに永い間、病気と闘い、その医療費に追われてきました。私たちは社会的には健康な人とは差別されています。
 しかし、未救済の患者はなんの援助も 補償もなく、日々の生活に追われています。せめて苦しい時になんのちゅうちょもなく治療が受けられることがわたしたちの願いです。
 もうどこにもすがる術のないわたしたちには、この裁判がたった一つの光明です。この訴えを認めてもらうしか生きる道のない私たちは戻ることのできない断崖に踏み出したのです。
 しかしわたしたちがたたかう相手は巨大な権力と支配力を持って封じ込めようとしています。それでも公害の恐ろしさを知る私たちが、もうこんな苦しい思いを誰にもして欲しくなくて起こした裁判です。
 訴えを起こした仲間の 1割以上がたたかい半ばにして無念の死を遂げている、無慈悲な病気を持つ私たちですが弁護士の先生に手を引かれるように、支援の方に背中を押されるようしてここまで来ました。また裁判は続きますが、どうか私たちの告発の行方を見守ってください。
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